あだ名のお話
こんばんは
咳払いコミュニケーション
部下の命綱握ってないと不安な坊や
油性ペン怖い文化
どんなやり方するか見てやろうコミュニケーション
最近、私がつけたあだ名の数。主に職場で。全部あんまり良い意味じゃない。
本わさび
というのもあります。
これは自分の事。
私は腹黒いのかな。
という事もないと思う。
なぜならば、
臆病だから人を観察してしまうけれど、観察した結果は、良いことに生かそうという気持ちがあるから。人をおとしめる為には使わないのだ。基本的には絶対に。ただ観察してその結果、あだ名を付けてしまう自分はちょっとふざけているし失礼だとは思う。でもあだ名を付けずにはいられない。ふざけたくなる。そこ我慢できない。
私は時、自分が、いたこさんの才能があるかもしれないと思う。
でも、
個人の主観は永遠にその個人のもので、他者の侵入や介在や否定を許さない尊いもの。
尊厳の根元。
だから私は簡単に他者の主観が分かるなんて言いたくない。
である私に流れ込んでくる他者の感情は、他者の感情そのものではない。他者を見ている私の主観。である私の主観は、他者の様子を細かく観察して考察して想像した想像上の他者の感情を、あたかも自分の感情であるかのように感じてしまう。悲しみや怒りや悪意。喜びや安堵、安心感、思いやり。
全ては私のフィルターを一回通ってる。
被害妄想強めで何でもネガティブに捉えがちで人間不信で無駄に罪悪感感じてしまう自分のフィルターを一回通ってる。
しかしそういう自分の観察は自分のもうひとつの特性である客観性や冷静さや理屈っぽさや冷徹さのフィルターもちゃんと通ってる。
そして忘れちゃいけない、本当は人が好きで優しくしたくて仲良くなりたくて楽しい事したくてしょうがない自分のフィルターもちゃんと通ってる。
お化けなんてないさ、っていう歌があるけれど、私に言わせればお化けなんて普通にいるさって感じですが、それだって、私の思い込みの強さのなせる技かもしれないと思う。
全ては私のフィルターを一回通ってる。
決めつけはよくない。いろいろ失礼で。
でも、そこをもう一歩踏み込んで、自分を大事にするなら、自分の特性を愛するなら、自分にそういう辛い感情を想像させる場所や人には、自分からさよならしても良いのかなって思います。
今の職場の事です。
今までは、それは負けで、挫折で、根性なしで、優しくしてくれた人や応援してくれた人への裏切りだと思っていたけれど、
自分を大事にするなら、大切な大切な自分の居場所は大切に大切に選んでもいいのかな。社会通年上はあり得ない事でも。
私は自分を大切にしている私を好きな人と付き合いたい。自分を大切にしている私を好きな人が好き。
誰に何と言われても、自分の責任で物事を決める。人様にかけてよい迷惑とかけちゃダメな迷惑があると思いますが、私のかけてきた迷惑はちゃんと許される範囲内だと思う。
自分の幸せは自分で決める。
働く場所って自分の責任で選んで決めて良いのかな。
なんて考えながら、
何となく、今は、
全部、保留にしておくのがベストって気がする。
私の勘がそう言っているのだから、たまには自分の勘を信じてあげよう。
決断するのは今じゃないって、私の勘がそう言っています。
だから明日も職場に行こうかと思う。
といいつつも、明日の朝の勘で決めて、嫌な予感がしたら、さぼろうと思う(堂と言うな笑)。
最後に、悪意がないあだ名をご紹介します。
海王神さま
私をスーパーサイヤ人とするならば。
こんな私を暖かい目で見てくださる方に。
私がおバカな事ばっかりしていても、時に笑っちゃいながらも暖かく見守ってくださるどなたかに。
海王神さま
もらってくださる方がいらっしゃいますように。
それでは
おやすみなさい