命の価値は人に寄って差があるの?

「命は地球よりも重い」と誰かが言った。確かにそうかも知れない。だけどどう考えても、命は地球があるから、育まれたのだから、絶対にどんな命より地球が重いのだ。敢えてその逆を云い、それ程命は大切なのだと強調した絶妙な文章なのだ。物凄く説得力がある。だが、何となく利己的な感が否めない。命を絶対視した自分中心の感がする。そして最近の豪雨で、大きな災害をもたらし、多くの命が亡くなったし、その後の猛暑で、毎日の様に熱中症で死ぬ人が出る。だけど、ニュースを見ると、災害の犠牲者も体の弱いお年寄りが多く、熱中症もお年寄りが殆どだ。だから私が「苦しんで死んだのは可愛そうだが、若い人や子供で無いから、まだ良かったのでは?」と言うと、女房に叱られた。確かに女房の言う通りなのだが、私には、どの命にも、それぞれに価値の差が有る様に思えて成らない。今にも死にそうな危篤の人と、若い元気な人とでは、命の価値差が有るように思えて成らない。そう言われると誰もが、成る程、命にも差があると思うかも知れないが、そんな感じを肯定すると、結局は命の差別に繋がるようになり、ランクを付ける様になり、最終は差別を産まない理想だけを求め\xA4

詬佑棒丨辰董∋呂瓩鳳召辰拭崔狼紊茲蠅盻鼎ぁ廚叛丨辰燭里世蹐ΑF辰忘◀瞭䡄椶任蓮~晋里\xAB理想だけが、先走りする。こじつけ理由を探し出すと、憲法が有る。憲法が現実から逃避した理想境に浸っているから、命に関してもそう成ったのかも知れない。だけど私は命にはそれぞれ価値の差が有るように思えて成らない。皆さんは如何でしょうか?或る人の命は99点で、或る人は98点等と、微妙な差は計り得ないが、大まかな差が厳然と有ると感じて成らない。例えば、先進国の一人の命と、アフリカのどうにも成らない訳の分からない地域の人の命とは、全く平等と言うのは、それはそれで理想だろう。そしたら、マスコミでも、同じ価値で報道するべきが、大きく差が出て居る、それに対しては、余り吊し上げをしないが、要は同じ事なのです。先進国の人の命と後進国の命とは、報道で大きな差が出て居るのに、それを追求しない。或る面では、理想を言いながら、実際には大きな差を認めている。何か片手落ちの感がする。話は変わるが、安楽死の問題でも、どうせ命あるモノは何時か死ぬのだから、苦しまないで死ねるなら、死なせて上げる法律を作って欲しいのに、日本では安楽死の議論

にも入れない。議論する事も罪だと言う雰囲気なのだ。変だと思いませんか?日本人は何故表向きだけ、理想を追求するのだろうか?だからお年寄りで寝たきりの病人なら、そして楽に死ねるなら、何時死んでも良いのに、1秒でも長生きする事が善であるとしか、社会も誰も言わない。殆どの人がその方が良いと思って居るのに、言えない社会だ。苦しまないで死ねるなら、喜ぶべき事なのに変人だと言われるから、誰も言い出さない。何か、裏表が有る様に感じる。