孝に三有り。 - 味園博之のブログ−文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

第3553号 30.09.29(土)

孝に三有り、小孝は力を用ひ、中孝は勞を用ひ、大孝は匱(とぼ・ひつ)しからず。慈愛を思ひて労を忘るるは、力を用ふと謂ふ可し。仁を尊び義に安んずるは勞を用ふと謂う可し。博く施して物を備ふるは、匱しからずと謂ふ可し。父母之を愛すれば、喜びて忘れず、父母之を悪めば、懼れて怨むこと無し。父母過有れば、諌めて逆はず。父母既に没すれば、必ず仁者の粟を求めて以て之を祀る。此を之れ禮の終と謂ふ。『礼記』721

 孝に三等がある。小孝は努力を要し、中孝は心労を要するが、大孝は豊かで楽しい心境である。小孝は、父母の慈愛を忘れず、これに報いようとして苦労をいとわないものであるから、努力を要する孝と言うべきである。中孝は、単に父母に対するのみならず一般世間において仁を尊び義に安んずるという信条を守り、これによって父母の喜びをも得ようとするものであるから、大いに心労を要する孝と言うべきである。そして大孝は、おのれの恩徳を広く人びとに施し、おのずから集まる多くの種ぐさの物をもって、生きている父母を養い。亡くなった父母の霊を祀ることのできる孝行であるから、豊かで楽しい心境と言うのである。なおまた、父母がわれを愛してくれれば、これを喜んで忘れず、たとい憎まれても、これを警戒はしても恨むには至らず、父母に過ちがあれば、諌めはするが逆らうことはしない。そして父母が既に亡くなってからは、必ず善人から得た穀物を用いて父母を祭る。これを孝の終わりを全うすると言うのである。

 【コメント】解説を読んでみて、これは変えてはならない人間の踏み行うべき人の道であると思います。ところが現今は自分の幸せだけを優先し、親の事は後回しにする人がいるように思えてならないのです。

 普通、親は先に旅立つものであっても、生きている間は大事にしなければならないと思います。

 特に権利意識が強くなったのも、全国の労働組合で統一要求をすることが挙げられると思います。要求するときは、会社側にそれらを与える財産能力がなくてはならない筈です。

 ところが労働組合の中央本部からオルグに来る連中は、相手が困ろうと何も構わない、我々は要求をし続ければししのだとオルグをしたものです。

 貧乏家庭で育った私は、その論理にはどうしても與したくなかったものです。ドラ息子が母親に金をせびるのと同次元だからです。

 私は自分の家を守るため、精一杯のことをしてきました。寝る間も無い位働いてきたのでした。日本舞踊を長年おけいこしたのも、趣味を生かしながら、それを教えることに?げたのでした。

 79歳を迎えた今日、一番良かったと思うことは『南洲翁遺訓』との出会いでした。そのお蔭で英邁な荘内の先生方を存じ上げたことでした。

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征韓論に反対した大西郷

 是非とも、朝鮮国と交誼を厚くする初志を貫徹するようにしなくてはいけないと述べている。

 論旨、正々堂々として、根底に道義あり、しかも、この至難な使節の大役を一身を挺して自ら引受けたのである。  「御採用相成り御伺いの上」とあるのは、この主張通り、八月十七日、使節派遣が閣議で決定し、八月十九日、天皇に奏上して、御内定を得ていることをさすのである。

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善の研究』第34回

 しかし余は知識の究竟的目的は実践的であるように、意志の本に理性が潜んでいるといえると思う。この事件後に意志の処に論じようと思うが、かかる体系の区別も絶対的とはいえないのである。また同じ知識的作用であっても、聯想とか記憶とかいうのは単に個人的意識内の関係統一であるが、思惟だけは超個人的で一般的であるといえる。しかしかかる区別も我々の経験の範囲に強いて個人的と限るより起るので、純粋経験の前にはかえって個人なる者のないことに考え到らぬのである(意志は意識統一の小なる要求で、理性はその深遠なる要求である)。

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菜根譚』34

 利欲は未だ尽くは心を害せざれども、意見は乃ち心を害するの?賊(ぼうぞく)なり。声色は未だ必ずしも道を障(ささ)えざれども、聡明は乃ち道を障うるの藩屏なり。

 〔訳〕利欲の心は、まだことごとくは本心を害するものではないが、それよりもかえって我意我見の方が、本心をむしばむ害虫である。また、愛欲の心は、まだ必ずしも道に入る邪魔となるとは限らないが、それよりもかえって小賢しく聡明ぶる方が、道に入るのを妨げる障害物である。

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