人権・同和問題学習の疑問

以前にもこのブログ・ページで取上げたかも知れない。80才になる私でも、子供の時に大人から教わるまで知らなかった同和問題である。つまり、被差別階層の存在も知らず、ましてや自分から差別する行動もしなかった世代である。教わらなければ知らないで済んだ問題が、末だに国や自治体の指示で、町内の自治会でも人権・同和問題学習会の名の下に執拗に語り継がれ、知らない世代に知らしめる、寝た子を起す運動になっている。これではいつまで経っても同和問題は無くならない、むしろいつまでも語り継がれる矛盾を抱えている。何か目に見えない大きな力が働いているような気がする。

今、急に何故この問題を持ち出すかと言えば、こんな記事が出たからである(こちら)。さて、読者の何パーセントがこの記事の言いたいことを十分理解出来るか。記事の内容は、JR京都駅に隣接する一等地に市立大学が5年先にやって来る、それまでの間、廃れていたこの地域を活性化させる話である。若年層や地方の人達は、「あぁ、それだけの話か」と読み飛ばしてしまう内容かも知れないが、事情を知る一握りの人には、この記事が如何に言葉を選んで慎重に表現された苦労の産物かが判る。

「(この)地区は長年、部落差別に苦しみ」とか、「この取組みを同和問題の解消に役立てたい」とかの表現が、さりげなく記事に埋没するように組み込まれているが、実は太字部分の表現がこの記事の要点である。

私は京都生まれの京都育ち。その間にこの地域が昔“部落”として差別されていたと大人から教えられたので知っている。ところが、この記事を読む何人の人がその事実を知っていたか。記事にはまた、「地区は明治期、融資を受けることが難しかった(中略)。かつては老朽化した住宅が多数、密集する地域だった。劣悪な住環境改善を目指す公営住宅建設などのインフラ整備は遅れ(後略)」とさりげない表現の中に、この地区が差別扱いされていたことを説明している。

苦労して編纂された記事と推察させるが、本当はこんな報道は不要と思う。知らなかった世代や層に、差別の歴史を教え込ませているのである。新しく移転して来る大学の学生達に、「そんな地区だったのか」と知らしめるだけで、メリットは何もない。